放浪していて思うこと

放浪していてよく聞かれる事のひとつ『寂しくない?』に対する私の答え

放浪していて思うこと
この記事を書いた人
Kumi

2014年1月よりデジタルノマド的に海外放浪生活を送っています。現在10年め。COVID-19の間はタイに留まっていました。その間に最愛の猫夫に出会ってしまう。
色んなところにちょっとずつ住んでみる、短期旅行でも長期滞在でもない感じが好き。現地SIM好き。

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こんにちは、くみです。

この定住場所・本拠地なしの放浪生活をしていて、人からよく聞かれることの一つに『寂しくない?』というものがあります。
私は寂しいと思ったことが全くないので、いつも聞かれる度にビックリしてしまうのですが、そんなに聞かれるという事は普通はきっと寂しいと思うものなんですね。

なぜ自分は寂しくないんだろう?と考えるたびに違う答えが出てきて、きっと理由はいくつもあると思うので、書き出してみることにしました。

『誰かに会えない』のではなく『色んなところの友人に会いに行ける』生活

これは逆転の発想だと思うんですけど、今の暮らしは『会えない生活』ではなくてむしろ『会える生活』だと思ってるんですよね。

例えば、ベトナム・ホーチミンとタイ・バンコクとマレーシア・マラッカと台湾・台北にそれぞれ友人ができたとして、日本で定住して会社で働いていたら、会いにいける回数って人生で何回だろう?

私の今までの労働環境だと、海外旅行は行けない時期も長かったし、行けて年に1〜2回で期間もおそらく5日程度。
その5日で友達に会うためだけにホーチミンとバンコクとマラッカと台北を回るのは辛いので、多分1回に1か所になると思うんです。せっかくの旅行だから、まだ行った事のないところに行ってみたいという欲も出ると思う。
そうすると、せっかく知り合っても、会いに行けるのは2〜3年に1回か、もっと少なくなる。

この生活だと、少なくとも東南アジアであればどの都市でも1〜2年に1回は訪れられる。ヨーロッパも来年また行けるかもだし。
最初の海外旅行でベトナム・ニャチャンに友達ができたんですけど、ここ数年は1年に1回は会いに行けてて、日本で働いてたら多分そんなには会いに行けなかったと思うんです。

今の時代FBとかあって便利だけど、やっぱりある程度会わないとすごく仲良くなるのって難しいと思う。時間なのか回数なのかはそれぞれだけど。SNSは関係のメンテナンス用であって関係を深めるツールではないというか。

この生活は日本に定住している時よりも色んな友人に会いに行けるから、私にとってはむしろ寂しさが減るライフスタイルなんですよね。『故郷がいくつも出来る』という感覚に似ているかも。

Kumi
日本(特に関東)の人たちに会いに行けなくてごめんなさい…😢

新しい出会いが多いのでそれを『寂しくはない』と言う事もできるけど、全ての新しい出会いが人間関係として定着するわけでもないので、『新しい出会いがあるから寂しくない!』とまでは私は言えないかなあ。
ワンタイムの関係で賑やかにしているのが好きな人もいると思うのだけど、私はそういうタイプではないです。

定住しているから誰かにいつも会ってる、とは限らない

例えば東京に住んでいたとして、東京のある友達に会うのってどのくらいの頻度だろう?
付き合い方にかなり寄ると思うんですけど、同僚とかでなくプライベートの時間に友人と会うって考えたら、同じ人とは多分1ヶ月に1回とか、相手が忙しい人だったらもうちょっと少ないかもしれない。
もし半年に1回会うくらいのペースだったら、それは放浪生活でもそんな感じなので、同じ都市に住んでいる意味って特にはないと思うんです。

今の時代FBとかもあるし、どうしているかとかは発信している人であれば見れるし、連絡もネットがない時代よりずっと簡単に取り合えますよね。なんなら通話も安く出来るし。さっき書いたように深まらないかもしれないけど、つながりつづけてはいられる。
だからある友人と『近い場所に“ずっと”いる』意味って、以前より減ったんじゃないかなと思っています。

Twitterのオフ会みたいなやつに出れなくなるのは寂しいですけどね〜(堀さんの出版記念パーティ行きたかったなあ…)
まあそれも私にあふれる財力があれば行けるんだよな…😢

いつも周りに同じ人がいるという環境が自分を孤独にしないとは限らない

20代の時は定住していて、大学に行ったり会社で働いてもいたりしたんですけど、孤独にすごく苛まれたことがありました。
でもそれって周りに人がいないというよりも、苦しんでいるのに相談できる相手がいないとか、私を大事だと思ってくれる人はいないとか、そういうことだった気がします。友達自体はいた。周りに人がいるいないではなかったと思う。

今だって、親しくしている人全員に辛い話を相談できるわけではないし、仲良くしているけどそんな家族レベルで大事に思ってくれたりするわけじゃないけど(20代の時にくらべて今は精神的にそこまで切羽詰まっていないので、平気なのはそれもあるかも)、
私の事を面白いと思ってくれてたり、分かってくれてたり、私がこの人面白いなーって思って話してるだけで楽しかったり一緒にいると新しいものが生み出せるような気持ちになる友人が増えてきて。
そういう人たちと、もちろんそんなたくさんの頻度で会えるわけじゃないけど、それは同じ場所に居るだけで付き合っているという仲よりも満たされる気がしてます。
上下を付けるような言い方になってしまって悪いけれども。

日常生活でいつも誰かといるより、そういう自分にとって楽しいなと思う人達と半年に1回会える方が私は嬉しいなと思って。そっちの方が寂しくないです。
多分自分が自分らしく生きることで、私に合う人が私を認識してくれるというのがあると思うんです。
日本で暮らしていた時、たぶん誰も私が海外放浪したいような人間だって知らなかったと思う。(私も知らなかった)

昔は仲良くすることが高いプライオリティの時もあったけど、目的が『仲良くすること』だから、私と合わなかったり私の事を理解してくれない人とも我慢して付き合っていたりもして、それってお互いあまり良いことはないなって思ってます。
それを『寂しくない』って表現する人もいるのかもしれないけど、私はもうそっちは選びたくないなって。

そもそも今までの人生から、誰かに会いたくて寂しい、とは思わなくなった

この項目はあまり気持ちの良くない家庭事情の話を含むので、フォントカラーを白にします。読みたい方だけ反転して読んで頂ければ。スキップはこちらをクリック

Twitterで私を懲りずにフォローしてくれている方ならご存知だと思うんですけど、私は自分の生家を機能不全家庭、自分は家庭内虐待に遭っていた、と今は認識しています。

普通の優しいお母さん、居心地の良い実家、安定していて暖かい人間関係、みたいなものがあって、そういうものに小さい頃から慣れ親しんでいるのなら、もしかしたら寂しい、というホームシックのような気持ちが生まれるのかもしれません。私にはその余地がなかったので…
『家に帰りたい、帰ってお母さんに殴られて罵倒されて行動を制限されたい』って思えるとしたら、かなりヤバいですよね。

別に『優しい』みたいな明確なプラスじゃなく少し仲の悪い感じであったとしても、血縁から来る情でなんとなく家に帰りたくなる、みたいな事も世の中にあるとは思う。
私も別に血が通ってないサイコパスとかではなく、若い時は親や実家が恋しくなる時もあったけど…、
それって概念上の『親』とか『実家』なんですよね。自分の親っていう概念が先に立ってしまって、ちゃんと実物が認識できてない。
恋しくなって実際に会うと酷い目に遭って、傷ついて泣きながら遠ざかる、というのを19の時から何度もずっと繰り返して、私は35でそれをもうやめたので…。さすがに十何年も試行したら学習するというか。
(『凍りついた瞳』の、親が暴力を振るうので隔離されて、でも時間が経ってお互い会いたがってるしもういいだろう…と施設の人が会わせてしまって悲劇が起きた話、ああなってしまうの、被暴力側の立場としてすごくよく分かります)

だから、誰かと会いたいとか、恋しいとか寂しいとか、そういう気持ち自体を十何年もかけて殺してきたから今の寂しさを感じない私があるのかもしれないです。寂しいというのはあくまで自分の中だけの心の動きであって、実際には報われないものだから。
神様が放浪向けに私の環境をセッティングしてくれたんかもな〜…。ははは…ありがとうね…

こういう話、恋人方面もあるんですが、さすがにこれ以上書くのはちょっと止めておきます、自分も気が滅入るし。
私ほんとCloseなRelationshipが得られない運命なんじゃないかなー。

というわけで、全く寂しくないです

そういうわけで、人間関係はむしろ以前よりも満たされてるというか…
この暮らしを始めなければ出会わなかった好きな人たちとつながれたし、海外で現地集合したり、他の国の友達に比較的フレキシブルに会いに行けたりするので、人間関係はむしろ楽しいです!

家族か恋人でもない限り、同じ人とそんなにずっと過ごすものでもないと思うし…
同僚みたいな人ができないのは寂しいかもしれないけど、面白いと思うことや価値観が自分と似ている人とチームを組んで仕事とか出来るようになるなら私はそっちの方がいいし。

自分が普段接する人たちと愛着関係を築ける人なら、寂しいって思うのかもしれないですね〜。
私はきっとそういうタイプじゃないんだな。

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